井上井月は放浪・漂泊の俳人と言われる。幕末から明治にかけて信州の伊那谷にひょっこりやってきて、三〇年余を村の家々を訪ねて暮らし、六六歳で野垂れ死に同然に死んでいった。残された俳句(発句)は一八〇〇、一宿一飯のお礼の挨拶句のほか、伊那谷の生活風景や己の心の陰りを詠んだものも多い。子規に先駆ける近代俳句の先駆者との評価もある。
井月が世に出たのは、芥川龍之介とその侍従医で俳人・下島空谷(本名:勲 伊那出身)による。下島勲が『井月の句集』(一九二一・大正一〇)を芥川の勧めで出版、それを受け継いで、高津才次郎・下島勲共編『漂泊俳人井月全集』(一九三〇・昭和五)が世に出た。山頭火はこれを手に「井月句集を読む、おゝ井月よ」と感嘆している。それ以降も伊那の井月愛好家らは、大正、昭和、平成と九〇年以上に渡って埋もれた井月句や書簡を発掘してきた。一般社団法人 井上井月顕彰会(堀内功初代会長)は、そうしたバラバラだった研究者を一つの組織に統合しようと、一二〇人の会員を集めて発足した。二〇〇八(平成二〇)年のことである。
会の目標は大きく二つに集約されてきた。
一、井月の基本的な文献を整えること。
二、井月を世に広く出すこと。一については『井月全集』四版(二〇〇九)、『井月全集』五版(二〇一四)を相次いで発刊し、新たに発見された新句や新資料を追加していった。竹入弘元解読『井月編 俳諧三部集』(二〇一二)は、井月が全国を行脚して集めた諸家俳諧集「越後獅子」「家づと集」「余波の水くき」の三冊を、自筆原文と解読文とを同じ頁の上下に見やすくして載せている。これを見れば井月が放浪で付き合ってきた俳人がわかる。江戸、京都では、当代一流の俳諧師との交流がある。『井月日記』は、井月最晩年の三六〇日余の日記で、井月を泊めた家一〇〇軒、食事を提供した家二〇一軒の名前が記されている。宮原達明『漂白俳人 井月の日記』(ほおずき書房)は、日記から井月の実像を探っている。北村皆雄『俳人井月 幕末維新 風狂に死す』(岩波全書)は井月の謎を、幕末維新の時代と重ねて解き明かそうとしている。『井上井月真筆集』、矢島井聲、春日愚良子らの研究書もあり、井月研究の基礎資料は井月顕彰会の手でほぼ整ったといえよう。会は、井月研究の総決算と言うべき『新編井月全集』の編集を現代かなづかいに改変して新たに進め、一昨年九月に出版した。これらのついては、ほぼ実現されたと考える。
二、井月を世に広く出すことについては、二〇〇八(平成二〇)年から四年かけて映画『ほかいびと』(主演:田中泯、監督:北村皆雄)を、顕彰会が総力で完成させたことがあげられる。七〇〇人近い市民の寄付、数百名の地元民出演で盛り上がり、最初の伊那の映画館での上映では、連日大勢の熱気に溢れた。その後、東京、大阪を始め全国上映、海外でもパリの日仏会館大ホール、ドイツ、中国などで行われ、二〇一六年のミラノ国際博覧会(ミラノ万博)でも、『ほかいびと』」の短縮版が上映された。井月の認知度は高まった。フランスで映画スタッフにより「漂泊の日々—井月俳句一〇九」も出版された。
『上伊那の祭りと行事30選』(二〇〇八 ~二〇一二)を、企画「上伊那広域連合」を、文化庁地域活性化事業として完成させた。
二〇一四(平成二六)年、伊那市と組んで『井月展示室』(創造館内)も完成。伊那市の委託を受けて取り組んでいる『千両千両!井月さんまつり』)も、今年度で七回を数える。井月の生きた時代を通して地域の歴史を見直そうと、幕末維新のシンポジウムや様々な催しを開いている。並行して東京でも三月一〇日の井月の命日前後に、『井月忌の集い』(後援:伊那市 伊那市教育委員会)を開いている。一四人の選者、一五〇人の参加者を受け、事前投句や当日投句、放浪や風土をテーマにした映画などを上映している。今年度で七回目を迎えた。二つの催しを通して伊那と東京の交流が、車の両輪のように回り始めたらと願っている。
地元での地道な催しもある。市民対象の「井月入門講座」もすでに六年。井月句碑建立も七三を越す。
最近、顕彰会として取り組み始めたのは、井月自筆の句や書簡の収集である。家の世代交代で散失いちじるしい資料を、井月展示室への寄託、寄贈、購入を含めて動き出した。東京では地元出身者に「ふるさと納税」を働きかけ、その一部を井月の活動に使わせてもらっている。井月顕彰会は、郷土史「伊那路」、俳句雑誌「みすゞ」、地元の新聞、地元ケーブルテレビ局との提携・協力で、一丸となって地域の活性化をしようと取り組んでいるところである。
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