井上井月(1822?−1886)
いのうえせいげつ
文政5年(1822年)に生まれたと言われる。越後長岡藩士井上某の子、勝造または勝之進と称し、井月と号した。如何なる契機で俳人となったか明らかでないが、嘉永5年善光寺に来り、伊那へ来たのは安政5年頃で、紋附黒羽二重の小袖、白小倉の袴、菅の深阿弥笠といったいでたちであったと言う。
生来酒を好み、行住坐臥悉く奇行逸話でないものはなく、酒を飲めば只、千両々々と唱え、甞て怒ったこともなく、また婦人に戯れたこともなく伊那谷にあること30余年、明治20年3月10日上伊那郡美篶村末広太田窪の塩原折治梅関方で眠るように漂泊詩人井月は往生を遂げた。
時に66歳で、井月の墓は死後まもなく門人梅関によって建てられた。自然石に”降るとまで人には見せて花曇り”の一句が刻まれている。
(下島勲編、井月全集より)
井月さんはこんな人
種田山頭火にとって井月とは......
行乞の俳人 種田山頭火は「漂白俳人 井上井月全集」(下島勲、高津才次郎編)を昭和7年8月2日に読んで
「よい本だった、今までに読んでいなければならない本だった、井月の墓は好きだ、書はほんとうにうまい」
「私は芭蕉や一茶のことはあまり考えない、いつも考えるは路通や井月のことである、彼等の酒好きや最後のことである」と言っている。
(「信濃路の山頭火」ほおずき書房より)
芥川龍之介は......
芥川龍之介は主治医、下島勲(空谷)を通じて井月を知りその書を
「入神と称するをも妨げない」と評しています。
(「漂白の俳人井月 回想の句画書文集」新潟日報事業社出版部より)
良寛とのちがいは......
井月はよく良寛に比べられることがある。隠者、無欲、風雅で両者は似通う面もあったが、根本的な違いがある。良寛は名門出身が明らかであり、しかも法衣の人である。学問、教養もふかい権威ある出家僧とみなされ、農村、町家のエリートであった。まして故郷であれば、周囲はすぐ打ち解け、尊敬と親愛の情を惜しみなく注いだ。素封家の保護もあり、友人、知己、信者に囲まれた生活ともなる。良寛にそれだけの人徳があったことはいうまでもない。
一方、井月はといえば、まさしくその逆を考えればよい。有力な素封家の保護、井月信者も居たであろうがあくまでも、裸一貫で生きる以外、何の権威も持ち合わせなかった。
(「漂白の俳人井月 回想の句画書文集」新潟日報事業社出版部より)